学校生活そして不登校へ編

 

最初の1年目は、先生も私達も手探りだった。

学校に対して沢山のわがままに近い要望を訴えた。
事ある毎に、Yuinaにとっての最善策を常に話し合うことができた。
親の思い、希望も随分とお願いし、学校に苦労をかけたように思う。
毎日の送り迎えの時に随分と時間をかけて、先生と話し合い、お互いの理解に努めあった。

先生は入学前に言った言葉通り、YuinaにとってのYuinaのペースのカリキュラムを作り上げる努力をしてくれた。

先生も私も、新しいことにチャレンジし、失敗し、反省し、もう一度やり直し、・・・この繰り返しだった。

 

お勉強の中で『あいうえお』を覚えた。

字を読むことによって、全ての物や人に名前があること、感情を表す言葉があること、音を表す言葉があること、正しい言い方などを理解する。
この事によって、娘は急成長をする。

つたない言葉で会話ができるようになった。
目につく物、「あれは何?」と聞くようになり、紙に書いてくれと要求するようになった。

この頃になって、娘の障害の傾向が明確になってくる。
『目で見た情報が知識の殆どである事。
 耳で聞いた事は、一度頭の中で映像化してから理解する。
 複数の指示は、最初の一つ目しか聞き取れない。
 Yuinaさん、と声を掛けられなければ、話しかけられた事に気が付かない。』

しかし、それらをふまえて接すると意外と何でもできるようになった。

お友達と遊ぶことを覚える。
近所のお友達が障害を知った上で遊んでくれるようになった。

2年生になり、かなり意志の疎通が取れるようになり、お友達とケンカしたり、お約束したりするようになる。

特殊学級から離れ、普通クラスでもお勉強ができるようになったり、いっしょに給食を食べるようになる。
まるで、スポンジの様に様々な事を吸収している時期だった。

親も先生ももっといろんな事ができるのではと欲が出てくるようになる。
娘は全てに答えてくれた。

このころから、私達の間で『Yuinaマジック』という言葉が出てくる。
娘は、「できない」と言わない子だった。
言われたことに、一生懸命に答えようと努力する子だった。
接する相手に、「この子なら大丈夫!」だと錯覚させるところがあった。

3年生になった娘は、まるで別人のようだった。

   

学校へは私の送り迎えもなく、おにーちゃんと一緒に通っていた。
1日の殆どを普通クラスで健常の子と一緒に黒板に向かい、お勉強できるようになった。
行事なども、特殊学級としてではなく、普通クラスとして参加できていた。

ただ、この頃から時々「学校、行きたくない」と言い始める。
それでも、1週間位、家で私に甘えつくすと、ある日突然に「学校、行く」と元通りになった。

「学校に行きたくない」と言い出す時期がだいたい決まっていた。
運動会の前、発表会の前、大きな行事の前後、スキー学習の日。
相変わらず、集団行動には拒否反応を示す娘だった。

4年生になり、運動会前にいつも通りの登校拒否が始まった。
幼稚園の時からの事なので、いつも通りに家でのんびりと過ごし回復を待つ。

・・・はずであった。

いつもは、運動会が終わった次の日にはいつものYuinaに戻り、元気に学校に行っていた娘が
何日たっても顔色がすぐれない・・・。
「・・・気持ち悪い・・・」と訴える事が多くなる。

1学期の間中、学校へ行ったり休んだりの繰り返しだった。
夏休みに入り、徐々に元気を取り戻したかに思ったが、2学期に入ってから、
はげしいおう吐がはじまる。夜になると吐き気を訴えるようになる。

ある日、1晩中はき続けた娘はぐったりとしていた。
朝になってもおう吐はおさまらなかった。
お昼前までに、ビニール袋半分が一杯になるだけの胃液を吐いた。
慌てて掛かり付けの療育センターに電話したが、担当医に診てもらうことができないといわれ、やむなく他の診療所に。

診察してくださった医師は

「娘さん、自閉ですよね。学校生活がかなり負担になってますね〜。心身症になってます。」

自閉が併発してしまったのである。

もっと早くに気付くべきであった。
私達は幼稚園卒園の時に先生に言われた言葉を思い出していた。
「Yuinaちゃんは、自閉の傾向が奥深いところに持っています。集団の中に入ると併発するんじゃないかと心配です。」

Yuinaマジックにかかっていた。
「この子ならできる」と思い込んでいた。
何でもできるようになったのではなく、娘が精一杯、限界ギリギリで頑張ってくれていたのである。
苦手な集団の中でも我慢してくれていたのである。

その時の娘には、これ以上頑張る心の余裕はなかった。

すぐに学校と連絡を取り、普通クラスへの行き来を控えてもらう。
しかし、特殊学級に戻ってみると、4人だったクラスがいつの間にか15人を超える大所帯になっていた。
薬を服用しながらも、学校に通ってはみたものの、もう学校の中で娘と先生が1対1になれる時間も場所は見つからなかった。

3学期を前に、教育センターに相談に行った。
「もう充分頑張りましたよ。ここまでが娘さんの限界なのかもしれません。しばらく学校から離れましょう」

私達夫婦に依存はなかった。
逆にその言葉がありがたかった。

学校側もとても親身に対処してくれた。
「Yuinaさんの調子が戻るまで、待ちましょう」と娘をそっとしておいてくれた。

そして娘は不登校になった。

 

 

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